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December 14, 2005
横須賀功光展&平安の仮名・鎌倉の仮名展
【横須賀功光展「光と鬼」】
恵比寿の東京都写真美術館へ赴いた。照明演出を藤本晴美さんが手がけているのと、図録の構成を松岡さん+勝井さんが手がけているのだから、いちど見ておかなければならない。
会場は、歩くたびに床がギシギシいうのと、少し狭い印象を除けば、斬新な作りで面白かった。全部観たかなと思うと、あ、この作品まだ観てないという、一種の宝探しのような錯覚に陥る。(一応すべて観たはず)漫画なんかで見る八門遁甲の陣のイメージ。
横須賀功光の写真は、意識してみるのは今回が初めて。
コントラストの強い写真が多く、全体的に黒い印象を受けた。それが、黒い什器の白いフレームの中にあるから、余計に白黒の対比が強調される。一番印象に残ったのは、それらの作品の中で最も白い2点だった。
白い空間の中に、黒い女性がぽつんと小さくポーズをとっている。その位置や空間の構成にもよるものだろうが、まるでミクロの人間のようだった。
全体的な印象でいうと、横須賀功光の作品は、撮られている対象が何であったかをはるかに超えているように感じた。
山口小夜子と山海塾(?)の写真も、白塗りの人々がまるで山口小夜子を取り巻く布や何か別のモノであるように見え、とても人間には見えない。マン・レイへのオマージュである作品らも、何を組み合わせて撮ったものかというのはどうでも良いことに思えた。人体を「人間」としてカメラに収めプリントするのではなく、「何か」にしている。これは本当に「何か」であって、なんと言ってよいのかわからない。松岡さんの文章には「間際」とあった。
オブジェクトやサブジェクトを超えることが「表現」なのかもしれない。
【平安の仮名・鎌倉の仮名】
その足で有楽町の出光美術館へ。前の記事にも書いたが、仮名は日本の文字で本質的な役割を担っているかもしれない、と思っているので、これはぜひ観ておかなければと思っていた。
正直、あまり平安と鎌倉の違いというのには興味が無かった。単にかなの変遷というものを少し観ておきたかった。もちろん、貴族から武士へという社会変化は重要な時代背景だと思うが、連綿と流れている時間の中で、むしろその間を見てみたかった。
ただ、やはりざっくりとした印象でもかなり違っていたように思う。
それは、途中の「手習」に関するパネルにあった、「平安の仮名は乱れ書きやすさび書きが優雅で美しいとされていた…。」という内容に結実していると感じた。Kさんのブログにも、図録を引用しつつそのようなことが書いてあった。
平安の仮名、特に和歌を書く仮名というのは個人の感情で書くことが良しとされ、鎌倉になってくると公文書の記録としての役割が大きくなっていく。記録として読みやすいよう、残りやすいように「フォント化」していくこと、要するに「形式化」することが望まれているように思えた。確かに、同じスクロールの中の一字、を比べてみても、似ている文字になっている。展示も様式別に分かれていて、これは、書き手の名前を冠した一種のフォントであるといえるかもしれない。
「私」の文字から「公」の文字へ、という変遷を見た気がした。記録と文字の関係も考えてみると面白い。
ただ、会場にはおばちゃんが多く、彼女たちがひとつの作品に張り付いてなかなか離れないのには辟易した。恐らく頭の中で運筆しているのかもしれないが、気になる作品に限ってそこを動こうとしなかったので、それらはこれから図録でゆっくり眺めることにする。
後日、藤本さんご本人と会食させていただく機会があり、そのとき「床がギシギシ鳴りますね。」と問うたところ、「甘いわね。あれはわざとよ。足音をさせないで暗いところから急に人が出てきたら怖いでしょ」との解説をいただいた。なるほど、てっきり足音がどうにもならなくて、藤本さんはご立腹かと思っていた。