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June 02, 2005
文字と非文字
写真をコラージュしていて、ふと思った。
写真に撮られた文字を地に引くのだが、これは一体「文字」なのだろうか?
撮影されている以上、「写真」ではあるが、そこに写っているのは確かに「文字」であり、
たいていの人はそれを文字と認識するはずではある。
しかし、こうやって扱っていると、文字のような気がしてこない。
このように、テキストを打ち込むと、確かにこれは文字である。けれど、見ているのはあくまでモニタであり、そこに映し出されているのは、 デジタル信号が変換された点の集合にすぎない。
よく感じるのは、Illustratorで、文字をアウトライン化した瞬間に、それまで「文字」だったものが「画像」に変わった気がする。実際、PC上において、テキストデータとしてそれを扱えなくなることは、「非文字」といえるかもしれない。
ところが写植の場合、文字は撮影される。撮影されて始めて「文字」としての存在があらわれる。要するに、印画紙に焼き付けられたものが写真であるなら、「文字」=「写真」なのである。
活版の場合、活字が組まれ、紙に押し付けられてこその「文字」である。
では、日本の場合、明治に活字が作られる以前は、それは「文字」ではなかったのだろうか。
そんなはずはない。
現在では、書は文字である上に、ピクチャとして扱われる場合が多いが、活字の流通する以前は少なくとも「文字」ではないことがなかったはずだ。
もちろん、読本などで言えば「書かれたもの」ばかりではなく、「刷られたもの」もたくさんあるのだろうが、原本は誰かの手によって書かれたある形を持っている。(まあ、活字やフォントも元々誰かが書いたものには変わりないだろうが)
それが絵草紙なんかと一緒になったものでも「文字」として流通していた。活字に慣れ親しんだ我々が見ると到底文字には見えないのだが。
要するに、活字の誕生が「文字」と「非文字」という観念を作ってしまったと言えるかもしれない。
それはマクルーハンが言った「文字文化は無意識を生み出した」ということと、近しいものがある。というよりは、活字は、「知性と感性を分断した」ことによって、文字自身の存在を揺らがせる境界のようなものを作ってしまった。その境界が「人間の無意識」なのかもしれないが。