January 24, 2007
器としてのデザイン
●コンテンツが先にあって、それを(視覚的に)明らかにする、伝えるのがデザインなのであれば、やはりコンテンツに合わせたデザインをするべきだろうか?
●そうなると、例えばビジネス、ファッション、思想、美術、など色々な分野に合わせて自分のテイストを変えていかなければならない。
●それとも、個人で、あるデザインテイストなりを持っていて、そこに当てはまるようなコンテンツがやってくるものだろうか?
●もしくは内容に関わらず、そのテイストを当てはめることができるだろうか?
●おそらくはそのどちらでもなく、ある何点かの軸は固定し、ある何点かは変えていくというような、個性と流動性を兼ね備えた方法を持っていなければならないのかもしれない。
●その方法こそが「テイスト」なんだろうか?
●なんにせよ、デザインは、デザイナーは「器」だ。
●そこにどんな料理(コンテンツ)が盛られてこようと、器としての形(型)は崩すことなく、その料理に合わせて、美しく機能的に配膳(レイアウト等)されるべきだ。
●要するに「型」なんだな。
●「型」があること、「型」を持つこと自体が方法なんだろう。
●じゃあその「型(器)」は幾つ用意しておく?
●だれが料理を盛る?
●配膳の仕方はどう変える?
●一つ言えるのは、かつて利休や織部が「利休好み」「織部好み」として茶道具なんかを目利きし、デザインのプロデュースしていったように、「器」は「好み」でいいんじゃないか。
●もちろんその「好み」が天下に通じなきゃ意味ないけど。
投稿者 mikandesign : January 24, 2007 02:29 AM
コメント
●その方法こそが「テイスト」なんだろうか?
だと思います。視覚化のための方法論というかアプローチというか。「型」というか、一種のシソーラスのようなものではないかと思う。
これは最近個人的に思っていることですが、何か実体化すべきモティーフがあって-その特性をうまく実体化するのがデザインである……という写像としてのデザインという考えに多くの人が飽きてきているんじゃないかと思います。それで「アフォーダンス」とか、みんないうんじゃないかな。呼び込むことができれば、という感じ。
投稿者 古賀弘幸 : January 25, 2007 03:57 PM